《ダダイストたち、とりわけツァラは、人間と、その営みを保障する手段としての言語を信頼していなかった。彼らは、人間を機械に近づけようとさえした(ハウスマンの「機械的な頭部」を思い出そう)。だから彼らには、自動人形よりロボットのほうが似合っている。
とはいえ、彼らの機械は、生産に奉仕することを拒否する反・機械であり、彼らの言語は意味に奉仕することを拒否する反・言語だった。したがって、モノと言語をめぐるダダの冒険は、近代の意味生産装置としての機械(=文学)の最後の段階を予告していたといってよい。時間的には、ダダのあとからシュルレアリスムがやって来たわけだが、ダダの問題提起は、シュルレアリスムのそれを越えた、より現代的な価値を含んでいた。シュルレアリスムが «愛=自由=詩» の図式を信じた「ホットな情熱」だったとすれば、ダダは、うわべの加熱した興奮にもかかわらず、実は(澁澤龍彦の言葉を借りるなら)「ニヒルな冷たい熱狂」だった。そしてこの「クールな熱狂」を全身で表現していたのが、ツァラだったのである。》――塚本史『ダダ・シュルレアリスムの時代』