「これではまるで大家のお嬢さまのようでございますわ」「越梅といえば京大坂から江戸まで知られた大家ですよ」もよ女は大きな胸を反らせながら云った、「——養女といえば娘なんですから、大家のお嬢さまに違いないでしょう、でもあたしのように肥ることはありません」【山茶花帖】もよ女#fedibird #日本文学
戦場に於て最も戒むべきを『ぬけ駆けの功名』とする、一人ぬけ駆けをすれば全軍の統制がみだれるからだ、平時にあってもこれに変りはない、家中全部が同じ心になり互いに協力して奉公すればこそ家も保つが、もしおのおの我執にとらわれ、自分一人主人の気に入ろうとつとめるようになれば、やがては寵の争奪となり、五万石の家は闇となってしまう【粛々十三年】#fedibird #日本文学
「眼先の事ですぐによろこんだり、絶望して身を滅ぼしたりする例は貧しい人間に多い、恒産なければ恒心なしといって、根の浅い生活をしていると、思惑の外れた場合などすぐ極端から極端にはしってしまい、結局、力のある者の腹を肥やすだけだ」【赤ひげ診療譚 おくめ殺し】 新出去定#fedibird #日本文学
「豊四郎は運の悪い生れつきだったけれど、あなたという方にめぐりあえて仕合せでした」と夫人が云った。「これからはあなたが仕合せになる番ですよ」【法師川八景】#fedibird #日本文学
人は誰でも、他人に理解されないものを持っている。もっとはっきり云えば、人間は決して他の人間に理解されることはないのだ。親と子、良人と妻、どんなに親しい友達にでも、――人間はつねに独りだ。#fedibird #日本文学
人間のしたことは善悪にかかわらず、たいていいつかはあらわれるものだ、世の中のことはながい眼で見ていると、ふしぎなくらい公平に配分が保たれてゆくようだ 【ちくしょう谷】隼人#fedibird #日本文学
「医術などといってもなさけないものだ、長い年月やっていればいるほど、医術がなさけないものだということを感ずるばかりだ、病気が起こると、或る個躰はそれを克服し、べつの個躰は負けて倒れる、医者はその症状と経過を認めることができるし、生命力の強い個躰には多少の助力をすることもできる、だが、それだけのことだ、医術にはそれ以上の能力はありゃあしない」【赤ひげ診療譚 駆込み訴え】 新出去定#fedibird #日本文学
男が一生を賭けた仕事に、あせってやってできるようなものがあるか、おれはこれまでに幾たびも失敗した、これからも失敗するだろうと思う、しかしね、失敗することは本物に近づくもっともよい階段なんだよ、みていてくれ、おれはこんどこそ本物をつかんでみせるからね 【ながい坂】三浦主水正#fedibird #日本文学
「主従とか夫婦、友達という関係は、生きるための方便か単純な習慣にすぎない、それは眼に見えない絆となって人間を縛る、そして多くの人間がその絆を重大であると考えるあまり、自分が縛られていることにも気がつかず、本当は好ましくない生活にも、いやいやひきずられてゆくんだ」 「おれはそんなふうに生きたくはない」【天地静大】水谷郷臣#fedibird #日本文学
「よして下さい、そんな、ああ危ない、それだけはどうか、とにかく此処は、あっ」 手を振り、おじぎをし、懇願しながら、右に左に、跳んだり除けたり廻りこんだり、なんともめまぐるしく活躍し、みるみるうちに五人の手から刀を奪い取り、それを両手でひと纒めにして、頭の上へ高くあげながら、「どうか許して下さい、失礼はお詫わびします、このとおりですから、どうかひとまず」などと云い云い逃げまわった。【雨あがる】#fedibird #日本文学
「不安を感じたり怯えたりするのも、おれたちが人間であり、生きている証拠だからね」【天地静大】平石頼三郎#fedibird #日本文学
――おれは間違って生れた。と甲斐は心のなかで呟いた。けものを狩り、樹を伐り、雪にうもれた山の中で、寝袋にもぐって眠り、一人でこういう食事をする。そして欲しくなれば、ふじこやなをこのような娘たちを掠って、藁堆や馬草の中で思うままに寝る。それがおれの望みだ、四千余石の館も要らない。伊達藩宿老の家格も要らない、自分には弓と手斧と山刀と、寝袋があれば充分だ。――それがいちばんおれに似あっている。【樅の木は残った】#fedibird #日本文学
保之助は酒を飲もうとした。しかしもう徳利は二つとも空であった。彼は唇を嚙んで頭を振った。額にどす黒い皺がより、こめかみに太く血管があらわれた。肉躰的な苦痛が、いまは一種の快感に変るようであった。化膿した歯齦を強く押すときの、むず痒い痛みに似た快感であった。【天地静大】#fedibird #日本文学
「――おめえはな、さぶ、おれにとっては厄介者どころか、いつも気持を支えてくれる大事な友達なんだ、正直に云うから怒らねえでくれよ、おめえはみんなからぐずと云われ、ぬけてるなどとも云われながら、辛抱づよく、黙って、石についた苔みてえに、しっかりと自分の仕事にとりついてきた、おらあその姿を見るたびに、心の中で自分に云いきかせたもんだ、――これが本当の職人根性ってもんだ、ってな」 【さぶ】栄二#fedibird #日本文学
芸というものは、八方円満、平穏無事、なみかぜ立たずという環境で、育つものではない、あらゆる障害、圧迫、非難、嘲笑をあびせられて、それらを突き抜け、押しやぶり、たたかいながら育つものだ、【虚空遍歴】#fedibird #日本文学
躄車に乗って残飯をねだるのも、他人の家のごみ箱をあさるのも、その当人がしているのではなく、生きているいのちに支配されているだけではないか。生命という無形のものが人間を支配して、あのようにみじめなことをしても死に至るまで生きようとさせるのではないだろうか、と冲也は思った。「そこにはもうかれら自身はないのだ」と冲也は独りで呟いた、「——躄車で残飯をねだっているのはいのちだけで、老人そのものはそこにはいない、人間としての老人はもうその肉躰から去って、虚空のどこかをさまよっているんだ」【虚空遍歴】中藤冲也#fedibird #日本文学
「人間が食う心配に追われだしたらおしめえだ、食うってことは毎日だし、生きてる限り食わなくちゃならねえ、そんなことに追われていて男が一生の仕事ができるもんか、おらあそんな心配をしたことあ、一遍もありゃあしねえ」【正雪記】又兵衛#fedibird #日本文学
厚く雲のかさなった、星ひとつ見えない空は、冬のきびしい威厳を無辺際に大きく、重おもしく示しているように感じられ、地上にあるすべてのものは、その下で身をちぢめ息をひそめているように思えた。【ながい坂】#fedibird #日本文学
かなしいな、と彼は思った。男と女との結びつき、良人となり妻となることもかなしいし、二人のあいだに交わされる昂奮や陶酔や、さめたあとの飽満もかなしい。肌と肌を触れあい、同じ強烈な感覚にひたりながら、しんじつ二人がいっしょになることはないのだ。【虚空遍歴】#fedibird #日本文学
もっと人間らしく、生きることを大事にし、栄華や名声とはかかわりなく、三十年、五十年をかけて、こつこつと金石を彫るような、じみな努力をするようにならないものか、散り際をきれいに、などという考えを踵にくっつけている限り、決して仕事らしい仕事はできないんだがな【天地静大】水谷郷臣#fedibird #日本文学